金は利息を生まないのに、実質金利2%台でも最高値
金は利息を生みません。なのに、実質金利が2%台に高止まりしたまま史上最高値を更新しました。教科書の逆相関と、それが崩れた2020年代。金を見る4つの物差し(実質金利・中銀購入・ドル・流動性)を整理します。
「どれほど美しい仮説でも、どれほど賢い人が唱えたものでも、それが誰であるかは関係ありません。実験と一致しなければ、その仮説は間違っています。」1964年、コーネル大学の連続講義「物理法則の特性」で、物理学者リチャード・ファインマンが語った言葉です。
金融の世界にも似た美しい仮説があります。実質金利が下がれば金は買われ、上がれば売られる。何年も検証に耐えてきた関係です。その関係に2022年以降の市場が待ったをかけました。その顛末を金という「物価を映す資産」の仕組みから追います。
2026年の金は1月に約5,590ドルの史上最高値をつけました。3月と6月に二度急落し7月上旬は4,000ドル台で推移しています[8][9]。6月の急落はNo.005で追いました。この値動きを語るとき市場は「実質金利」と繰り返します。それでいてこの語そのものを立ち止まって説明する記事は多くありません。
実質金利は金だけの話ではありません。日銀が「実質金利はきわめて低い」と言うときも住宅ローンやインフレの議論でも使われています。ここでは定義と金との関係・そして2022年にその関係が壊れた理由を順にたどります。
「物価を引いた後」の金利
名目金利が3%でも物価が3%上がるなら預けたお金の買える量は増えていません。この直感を式にしたのが実質金利です。おおむね「名目金利−期待インフレ率」で表されます[1]。お金の実質的な増減を測る物差しです。
金融の議論で使う実質金利は過去のインフレ実績ではなくこれからのインフレ予想を引きます。市場や家計が先行きに見込むインフレを差し引いた値が投資や消費の判断に効いてきます[1]。実質金利は名目金利が動かなくてもインフレ予想が動くだけで変わります。
TIPSが映す、市場の実質金利
米国では実質金利は市場価格として毎日観察できます。物価連動国債(TIPS=元本が物価に連動して増える国債)の利回りがそのまま市場の取引する実質金利です[2]。2026年7月初めの10年TIPS利回りは2.2%台でした[2]。
普通の国債利回り(名目)からTIPS利回り(実質)を引いた差は「ブレークイーブン・インフレ率」と呼ばれます[1][2]。これが市場の期待インフレです。名目4.48%・実質2.25%なら期待インフレはおよそ2.2%です。名目・実質・期待インフレの3つが毎日市場から読み取れます。
日本にも同じ仕組みの物価連動国債があります。財務省がブレークイーブンの解説と数値を公開しています[3]。
日本はもう少し精度を上げます。「実質金利が深いマイナス」という言い方は主に短期の話です。政策金利は1%程度。対して足元のインフレ率は1%台半ば〜2%程度で推移しており差し引きの短期実質金利はなおマイナス圏にあります。日銀自身も展望レポートで「現在の実質金利がきわめて低い水準にある」と説明しています[4]。
10年の名目金利は2%台後半まで上がってきました。長期の実質金利はプラス圏へ浮上してきた可能性があります。「実質金利」という言葉はどの年限を指しているかで意味が変わります。
実質金利が金を動かした時代
金は利息も配当も生みません。だから金を持つことには他の資産なら得られたはずの利回りという見えないコスト(機会費用)がかかります。実質金利が高いほどこのコストは重く、低い(マイナスが深い)ほど軽くなる。ゆえに金は実質金利と逆に動きます。これが標準理論です[5]。
これは理屈だけの話ではありません。過去10年余り米実質金利(TIPS利回り)は金価格の主要ドライバーであり両者の逆相関は市場分析の定番でした。金の国際団体ワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)自身がそう整理しています。逆相関の強さは12カ月相関でおよそ−0.8前後とする分析もあります[5]。
感応度の試算もあります。長期金利が0.25%下がると金は約1.75%上がる。こういう推計です[5]。No.005で金の急落を実質金利の上昇と併せて整理したのもこの教科書どおりの説明にすぎません。
では教科書はいまも使えるのでしょうか。
教科書が崩れた2022年以降
ところが2022年を境にこの関係は壊れました。実質金利は2%台へ急上昇。それでも金は史上最高値の更新を重ねていきました。2026年7月に入っても10年TIPSは2.2〜2.3%台(7月8日時点で2.31%)に高止まったまま金は4,000ドル台にあります[2][8]。教科書どおりならあり得ない組み合わせです。
代表的な整理がECBの公式分析です。2008年から2022年初頭まで続いた金と実質利回りの負の相関はロシアのウクライナ侵攻後に崩れました。主役は新興国の中央銀行です。外貨準備の凍結や制裁のリスクに備えて金を積み増しました。金需要は世界需要の2割超(2010年代の約2倍)に達しています[6]。
中央銀行の年間純購入は2022年に約1,082トンと過去最高を記録しました。2023年は約1,051トン・2024年は約1,045トン(のち約1,092トンへ改定)。1,000トン級が3年続いた計算です[7]。
中央銀行の買いは2025年に約863トンへ減速しました。それでも2010年代の平均(年500トン前後)は大きく上回っています。2026年も1〜3月だけで約244トンを買い増しました。ペースは続いています[7]。
ここに留保を添えておきます。世界の外貨準備に占めるドルの比率は1999年の約71%から2024年末には57.8%まで下がりました[7]。金利を生まない金が買われ続ける理由は機会費用の損得から「差し押さえられない準備資産」という保険価値へ移ったという見方があります。2020年代の構図についてはこれが有力な説明です[6]。
もっとも説明は一つではありません。財政赤字への不安を挙げる議論もWGC自身が検討しています。単一の犯人探しはできません。それが正確なところです[5]。
「有事の金」は、初日には売られる
金にはもう一つの通説があります。地政学の緊張が高まれば買われるという「有事の金」です。これは事実です。2026年2月末に米・イスラエルによるイラン攻撃が伝わると金は一時2%前後上げました[9]。
しかし上げは続きません。3月末にかけて急落しました。1月末の高値から約1,100ドル安の4,400ドル台まで沈みました[9]。これは異常ではなくパターンです。
2008年のリーマン危機でも2020年3月のコロナショックでも金は危機の初期にまず売られています。2008年は3月の高値から秋にかけて約3割下げました。2020年3月は10日ほどで1割超の下げです[9]。
理由は金の流動性の高さにあります。すぐ売れて現金になるからこそ追証や損失の穴埋めに真っ先に換金される。説明はこうです[9]。
政策対応が出て流動性の危機が収まると金は急回復してきました。2008年は通年ではプラスで終えました。2020年は同年8月に当時の最高値をつけています[9]。
金を測る物差しは一つではありません。平時の基準は実質金利(米10年TIPS)です。2022年以降はそこに中央銀行の購入が重なります。単独の物差しではもう説明しきれません[5][6][7]。ドルとの逆相関・どの通貨建てで見ているかもあわせて確かめておきたいところです。
危機の初期の金は「安全資産」というより「換金しやすい資産」として振る舞ってきました。2008年と2020年は売られたのちに戻しました。2026年3月の急落がどこに着地するかはまだ答えが出ていません[9]。
金が動いた日にどの経路が効いたのか。それを切り分けられれば見出しの一歩先が読めます。理論どおりに動く年もあれば、理論の外側で動く年もあります。金を考える出発点はそこを見分けることです。
出てきた言葉
実質金利: 名目金利から期待インフレ率を引いた金利。お金の実質的な増え方を測る。
TIPS(米物価連動国債): 元本が物価に連動する米国債。その利回りが市場の実質金利。
ブレークイーブン・インフレ率: 名目国債とTIPSの利回り差。市場が織り込む期待インフレ。
機会費用: ある資産を持つことで諦めた他の資産の利益。金の保有コストの正体。
中央銀行の金購入: 外貨準備の一部を金で持つ動き。2022〜2024年は年1,000トン級(それ以前の約2倍)に達した。
有事の金: 危機時に金が買われるという通説。危機の初期にはむしろ換金売りで下がる例が多い。
出典
[1] mof.go.jp
[2] fred.stlouisfed.org / fred.stlouisfed.org / fred.stlouisfed.org / federalreserve.gov
[3] mof.go.jp
[4] boj.or.jp / boj.or.jp
[5] gold.org / gold.org / longtermtrends.com
[6] ecb.europa.eu
[7] gold.org / gold.org / gold.org / imf.org / federalreserve.gov
[8] tradingeconomics.com
[9] cnbc.com / kitco.com / kitco.com / gold.org
お断り
本記事は公開情報にもとづく市場の仕組みの解説であり、特定の金融商品の売買を推奨する投資助言ではありません。金価格・金利等の数値は本文記載の時点のもので、日々変動します。投資判断はご自身でお願いします。
金の値動きには実質金利・中央銀行・有事という複数の物差しがあります。この号はその見分け方をまとめたもので、次の値動きを予言するものではありません。ほかに整理しておきたい仕組みがあれば、返信で教えてください。速報や補足はX(@noposihq)でも出しています。