原油が跳ねても反応しなかった金は実質金利に負けたのか
原油が跳ねれば金も上がるとは限りません。実質金利が切り上がった今回、「有事の金」は実質金利に負けました。一時的な逆転か、それとも力関係そのものの変化か。どこを見れば答え合わせできるかを整理します。
「戦争ではすべてが単純である。ただし、いちばん単純なことこそ難しい。」プロイセンの軍人で戦略思想家のカール・フォン・クラウゼヴィッツが没後出版の『戦争論』(1832年)に残した一節です。単純な理屈ほど、現実の摩擦につかまって思いどおりに動かない、という話でした。
19世紀の将軍がいまの金融市場を見ていたら、思わず笑ったはずです。「地政学リスクが高まれば、金が買われる」という単純な理屈が今回はそのとおりに動かなかったからです。
今日のトピック
7月8日、ブレント原油先物は前日比+5.2%の78.02ドルで取引を終え、3週間ぶりの高値をつけました[1]。背景にあるのは米国とイランの緊張の高まりで、WTI原油も同日アジア時間には72ドル近辺まで反発しています。ただし値幅については報道によって差があり、日中の上昇率を+5%程度とする報道もあれば、70ドル台回復という表現にとどめる報道もあります[2]。原油はその後7月9日には77ドル近辺まで反落し、2026年7月10日時点では76.09ドル(週間ベースでは約+6%)で推移しています(日々動きます)[1]。
これだけ地政学リスクが強く意識される局面では、「有事の金」が語られやすいところです。地政学リスクが高まると、質への逃避先として金が買われるという経験則です。ところが金スポット価格は、この局面で上がりませんでした。2026年7月10日時点の金は4,122.54ドル/ozで、前日比-0.03%・月間では-2.14%とむしろ下押しされています(日々動きます)[3]。7月8日時点の報道では、トランプ大統領が停戦の「終了」を宣言し原油が5%を超えて上昇した局面で、金は一時4,030ドル近辺まで下落したとの記述も見られます[10]。原油と金がそろって「有事」に反応するという、教科書どおりの構図にはなりませんでした。
原油が跳ね、金は跳ねなかった。今日はこの落差から書き始めます。
金は利息を生まない資産です。地政学リスクが質への逃避先として金を押し上げる、というのが「有事の金」の理屈ですが、金を保有する機会費用は主に実質金利の水準に左右されるとされてきました。実質金利とは、名目金利からインフレ期待を差し引いた金利のことです。実質金利が上がれば、利息のつく資産に対する金の相対的な魅力は下がる、という理屈です。原油と地政学の関係はNo.004で、実質金利と金価格の関係はNo.005で、それぞれすでに扱った論点です。今回はこの2つの物差しが同じ一週間のうちに相反する答えを出した格好です。
実質金利が金を抑えたのか
今回の局面では実質金利がまさに切り上がっていました。米セントルイス連銀(FRED)のデータによれば、米10年物TIPS利回り(DFII10)は7月1日の2.25%から7月7日に2.30%、7月8日には2.31%まで上昇しています。原油が上昇したのとほぼ同じタイミングです[4]。背景には、原油高がまずインフレ再加速の懸念を呼び、それが米金融当局の利下げ観測を後退させる、との連想があるとの解説が複数の市場コメンタリーで示されています。ドル指数も同じころ、2026年7月9日の100.92前後から7月10日の100.95前後(いずれも日々動きます)と、101近辺で底堅く推移しています[5]。実質金利の上昇とドルの底堅さが同時に進んだこの組み合わせは、金を持つ機会費用を高める方向に働くため、地政学リスクによる質への逃避需要を相殺しやすい、という説明が成り立ちます。原油の地政学プレミアムが立った週に、実質金利まで切り上がったのは、金にとって不運な巡り合わせでした。
有事の金は、まだ死んでいないのか
一方で、「有事の金」のテーゼを支持する見方も根強くあります。中東の緊張は依然として現在進行形で、トランプ大統領が停戦の「終了」を宣言し、追加攻撃の可能性にも言及したことは、地政学リスクプレミアムがまだ完全には消えていないことを示しています[10]。ホルムズ海峡で物理的な航行の途絶や大規模な供給ショックが実際に起きれば、インフレ高進と景気後退リスクの双方が同時に意識され、最終的には金にも資金が向かうというシナリオも、依然として排除されていません。
もう一つの支えが中央銀行による金の継続的な購入です。欧州中央銀行(ECB)の分析によれば、金と実質金利の伝統的な逆相関は2022年のロシアによるウクライナ侵攻を境に崩れ始め、中央銀行による金需要は現在、世界全体の金需要の2割を超える規模にまで拡大しているといいます[8]。短期的に実質金利の上昇が金を押し下げても、中長期の構造的な買い需要そのものは損なわれていない、という見立てです。
実質金利にも地政学にも、それぞれ数字の裏付けがあります。決着はまだついていません。
余談。強気・弱気のどちらの立場を取るにせよ、ここで一つ、構造変化を確認しておきます。ワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)の分析では、過去約10年、実質金利は金価格の主要なドライバーであり、感応度としては長期金利が25ベーシスポイント低下すると金価格は約1.75%上昇するという試算が示されてきました。ところが同じ分析は直近ではこの逆相関そのものが崩れつつあると指摘しています[7]。ECBの分析も2022年以降、外貨準備をめぐる制裁対象国等の資産シフトが中央銀行の金購入を押し上げ、伝統的な「実質金利が下がれば金が上がる」という単純な関係を不安定にしてきたと整理しています[8]。
言い換えると、今回原油と金が連動しなかったこと自体は、実質金利という一つの説明変数だけでは説明しきれない可能性があります。実質金利という物差しが効きにくくなっているなかで、地政学リスクと中央銀行需要という別の物差しがどこまで効くかは、まだ定まっていません。なお、原油の地政学プレミアムは停戦・攻撃をめぐる報道に日々敏感に反応しており、ここに示した数値も2026年7月10日時点の一断面にすぎない点には留意してください。
私の意見
タイトルの問いに戻ります。実質金利は、本当に地政学に勝ったのか。